教育のためのコミュニケーション

「公教育のビジョンのためのワークショップー『世界の教育はどこへ向かうか』著者・白井俊さんを迎えて」
2026.02.07 Report by 山崎一希

公教育とは?ビジョンを共有し吟味すること

 2026年2月7日、『世界の教育はどこへ向かうか』(中公新書)などの著者で、文部科学省やOECDなどで教育政策の形成に関わってきた白井俊さん(現・東京科学大学執行役)をゲストに招き、「公教育のビジョンのためのワークショップ」というイベントを開催しました。長時間のイベントにも関わらず、現役教員(小学校~高等学校、大学)やNPO法人、学習塾、さらにお仕事をリタイアされている方など、約20人の方に参加いただき、熱心な議論ができました。ありがとうございました。

 「公教育」という言葉。ここでは家庭の私事としての「私教育」に対して、社会が何かしらの意図をもって関わるのが「公教育」という程度の基本的な意味で使用しています。少なくとも日本国内で生活する人たちのほとんどは、何かしらの形で公教育に関わっています。他方で、税金を使って行われる「公教育」が、「だれ」の「何」を保障しようとしているのか、という根本的なビジョンを複数の人たちとの間で確認しあう機会はあまりないかもしれません。統一的なビジョンが必要というよりは、それが多様であるにせよ相互に共有して吟味しあうことが、教育政策を考えるうえでの大切な前提になると思います。

 白井さんが書いた『世界の教育はどこへ向かうか』は、日本の教育政策や教育を語る言葉を、国際比較的な観点から捉えて考察し、その上でいくつかの実践的な課題も示しているため、「公教育」のビジョンを考える手引きとして適切だと思いました。しかも白井さんご自身が文部科学省の官僚などの立場で教育政策に関わってこられた方です。地域の教育現場で日々実践に向き合っている人が、目の前の課題の背景にある教育政策への疑問やニーズを提示しつつ、他方で白井さんからは、教育政策の形成の場で何が考えられていて何が起きているのかを率直に語っていただく。そんな時間をつくれれば、公教育政策と実践を双方向につなぐ「線」の見方をみんなでつかみ、その「線」上で自分たちに何ができるか(すべきか)を考えるきっかけになるのではないかと考えました。

白井さんが語ったこと―「ウェルビーイング」と学校の目標

 能書きが長くなりましたが、当日の様子を振り返ります。前半は白井さんによる講演です。基本的には『世界の教育はどこへ向かうか』の内容に沿ったものでしたので、興味のある方は手に取って読まれることをおすすめします。 白井さんはまず、PISAのデータなどを示しながら、主にフィンランドとシンガポールの状況を紹介。かつてPISAで高い順位を記録したフィンランドでは、「すべて又は多くの授業で十分に学習できなかった」「教師の話を聞いていなかった」という生徒が多いというデータが出ているとのこと。白井さんはそれを見て、「本当に学習に向き合えているのだろうか」という問いをもち、本書に至る思索を始めたそうです。一方、近年PISAで高スコアを記録しているのがシンガポールです。天然資源をもたず「人材」への投資を強めたシンガポールでは、小学校卒業試験でその後のキャリアに関わるトラッキングがされるため、幼少期の教育競争が過熱化しています。現在は日本の「ゆとり教育」や「総合的な学習の時間」と重なるような、TLLM(Teach less, learn more)イニシアティブやプロジェクト・ワークといった施策がとられているとのこと。日本のPISAスコアも少しずつ上がっていることを踏まえると、国際比較において日本の教育が特殊ということでもなさそうです。

 さて、その後は「ウェルビーイング」「主体性」「探究」という3つの言葉をめぐって議論が展開されました。「ウェルビーイング(well-being)」をめぐっては、たとえばWHO憲章では「健康とは、単に病気・病弱でないというだけでなく、身体面、精神面、社会面を含めたウェルビーイングの状況のことである」と書かれています。OECDでは2019年にウェルビーイングを教育の究極的な目標として設定。世界中の人たちのウェルビーイングを実現するという観点から、その測定枠組みをつくり、実際に調査を進めています。日本のスコアが低く出た項目のひとつが、「他者との交流に費やしている時間」。これには参加者のみなさんも衝撃を受けていました。白井さんは、このようなウェルビーイングの測定枠組みを参照して、子どもたちのウェルビーイングがどう実現されるかという点から学校の機能を検証してみると、「スローガンのような学校教育目標が薄っぺらく見えてしまう」と指摘します。OECDの指標が唯一ではないにせよ、学校がどうあるべきかということをみんなで考える上で参考になりそうだと感じました。

コンテンツとコンピテンシーをつなぐ「方法」の知

 一方で、日本の教育現場でよく聞かれる「主体性」と「探究」は、実は独自性の高いワードです。白井さんは「いずれもすんなりとは英訳できない」と語ります。この、学習指導要領のようなナショナルカリキュラムに盛り込まれていながら、実はふわっとしている「主体性」や「探究」という言葉を、それぞれがどんな意味で使っているかを語り合うのもおもしろそうです。ちなみに白井さん自身は、教育目標としての「主体性」という言葉を「エージェンシー(agency)」という概念に重ねて理解することを提案しました。「エージェンシー」は、「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する能力」と定義されています。

 また、「探究」については、「inquiry-based learning(IBL)」、すなわち問いをベースとした学習と理解すると分かりやすそうです。その上で、特に科学的探究(science inquiry)の研究などをもとに、探究には①確認のための探究(問い・手続き・解法が示されている)→②構造化された探究、③指導された探究、④オープンな探究(問い・手続き・解法が示されない)という段階があるにも関わらず、教科教育が①と探究活動は④というように両極化して捉えられ、その間の段階がすっ飛ばされてしまっているのではないか、と白井さんは指摘します。たとえば、科学的な方法についての知識の習得は、その段差をつなぐものといえそうです。①と④の分離は、カリキュラムのおなじみの議論でいうと、コンテンツ主義(科学主義)対コンピテンシー主義(経験主義)の二極化にも通じます。それだけに両者をつなぐ「方法」の知を教育でどう扱うかは、きわめて重要な視点だと思いました。

カリキュラム・オーバーロードの解決の具体化を

 さて、こうした議論をすればするほど、学校教育への期待が大きすぎてパンクしてしまうという話になります。最後に白井さんは、カリキュラムが過剰になる「カリキュラム・オーバーロード」という問題を取り上げました。多くの人がカリキュラムに盛り込む内容を少なくしていくことに合意はするものの、自分にとって大事なコンテンツの削減は望まない、という現実が、この問題を難しくしています。一方、海外では各教科の最も重要な要素を取り出す「ビッグ・アイディア」などの取組みも試みられていることも踏まえれば、日本や国内地域でもカリキュラム・オーバーロードの解決に向けて具体的に動き出すことは大切だと感じます。この点は午後のディスカッションに引き継がれていきました。

カリキュラムをつくるのは誰か

 午前中の講演後、昼休憩をとって午後のディスカッションへ。参加者全員で机を動かし、互いをぐるりと見渡せるロの字型にしました。自己紹介からスタートです。

 今回、私の方では2つの視点を用意しました。1つは「公教育が保障する〈学力〉は何か」、もう1つは「それを担う人をどう育て、支えるか」です。ただ、議論自体は参加者の発言をベースに柔軟に進めることにしました。

 まず、何を学ぶべきかについて、「学ぶ楽しさ」と「自ら学ぶ力」という発言をしてくれたのは、塾の経営者の方。ご自身の塾の目標として定めたものだそうです。教科学習についても、「それがいかに役に立つかを丁寧に説明すると学ぶ意欲がわいてくる」と言います。また、小学校教諭の方からは、セーフティネットとしての学校という視点が示されました。「学校に来て『人生で初めて褒めてもらった』という子がいる」という言葉はなかなかショッキングでしたが、学校がその体験を保障することは確かに重要です。

 これらの意見はウェルビーイングやコンピテンシーに関わるものですが、他方で「何」を学ぶのかというコンテンツの議論も避けてはとおれません。この点については、高校教諭の参加者から、「本来、何を学ぶのかというカリキュラムの問題から、生徒や保護者の方と議論をしたい」という声が挙がりました。この点は2つめの「教育を担う人」の問題にもつながります。

 個々の現場でカリキュラムの議論を進めるためには、それぞれの裁量が必要となります。実は文部科学省も各現場の裁量やそれぞれの関係者との議論をベースとした教育は重視しています。それならばなぜ学習指導要領の大綱化がなかなか進まないのか。ナショナルカリキュラム形成の現場では何が起きているのか。白井さんに質問してみると、「学習指導要領の仕事にもかかわってきましたが、自分たちが『つくっている』という感覚ではないです」という衝撃的な答えが返ってきました。「私たちの方からすると、現場からのリクエストが非常に大きい。肌感覚では95%以上」とのこと。むしろ政治や経済界からの「外圧」が大きいと想像していた私は再び驚きました。ここでいう「現場」には、教科教育の団体なども含むのだと思います。「少なくともここの参加者は、ナショナルカリキュラムをスリム化して現場の裁量を大きくすることに賛成の人が多い。私たちが声をあげていけばいいのか」と聞くと、「そうだと思います」と白井さんはうなずきました。カリキュラム・オーバーロードを乗り越えていくためには、国の政策のレベルの葛藤も、現場における葛藤も両方ありそうですが、相互の連関を意識することが大事になりそうです。

多様な人の学校への関わり自体を子どもたちの学びの契機に

 参加者の中には、子育て支援や教育支援を行っている団体の方も何人かいました。そうした方々からは、学校の外から学校のサポートをしていきたいという強い思いが示されました。さまざまな人が関わって、それぞれの学校のカリキュラムをつくっていくという視点からも、重要なオファーだと思います。他方で、それを担う「人」の問題の難しさを、みなさんそれぞれ抱えているようです。多様な人たちが学校に入ってくる「リスク」をどう捉えるかが課題、という意見もありました。

 その中で小学校教諭だという参加者がこんなエピソードを紹介してくれました。自身の学校においては外国ルーツの子どもたちの支援を無償で担っている方がいるが、子どもたちは、そうして多様な人たちが自分たちの学校を支えてくれているということを意識できていないと感じたそうです。そこで、これらのボランティアの方々との協働の学習プロジェクトを試したものの、そこに至る子どもたちの中の積み重ねがあまりにも小さく、うまくいかなかったとのこと。

 その意味では、教師は限られた数で学校運営を行わなければならず、どうしたって学校外の方の協力が必要になるという現実と、子どもたちが多様な人と出合い、理解し、協働するということを積み重ねる教育実践とを、つなげていくことが必要なのかもしれません。これはまさに、「保障すべき学力」と「それを担う人」という2つの課題に関わる視点といえます。

ひとまず共有されたビジョンと参加者のみなさんの「その後」

 限られた時間でしたが、この日、このメンバーで確認した公教育のビジョン…とまではなかなかいきませんが、考えるべき論点をまとめておきましょう。

●国レベル、地域レベル、学校レベル…それぞれで「カリキュラムをつくっている」という実感をもてるような取組みを、それぞれのレベル間の連関も意識しながら求めていく。
●学び続ける場かつセーフティネットとしての学校を実現するのには、現状の教師の数だけでは足りない。多様な人たちが学校に関わる環境をつくるとともに、その環境を、子どもたちが他者との関係づくりを実践的に学ぶ場として活かせるような視点をもつ。

 会の終了後、何人かで懇親会を行い、そこでも議論は尽きませんでした。また、SNSで感想を書いてくださった方も多数いました。NPO法人の方は「今日の話はもっとたくさんの人に聞いて欲しかったし、中央で働く人たちの事が少しわかった気がして良かったです。もっと声を出して社会を変えていく動きをしていきたいですね」として、実際に地域と学校との協働についてお住まいの市で提言も行ったそうです。また、別の参加者からは、「多様な立場の方々が一堂に会し、対話できる機会は大変ありがたく、多くの刺激を受けました。その一方で、自身の理解力や表現力が問われる場でもあったと感じています」「ご用意くださったテーマを深めていくには、対話の時間が足りなく思います。もし可能であれば、続きを話し合える機会を設けていただけますと、私自身の理解や整理にとって大変ありがたく思います」という感想もいただきました。

 考えを深めるには時間が足りなかったという声は多くいただき、また、その中で議論の視点が拡散してしまって追い切れなかったという感想もありました。進行を務めた私の不手際もあろうかと思います。また、将来の教育を担う高校生や大学生の姿がなかったのも残念という意見ももっともだと思います。熱が冷めないうちにまた対話の場をつくり、やり方もますます工夫していきたいです。

 そして白井さんからは、「私にとっても非常に楽しい時間になりました」というメールをいただきました。私としては、日々の実践のレベルでの課題と、政策形成の上での課題とを同じ平面上に並べて相互に行き来させるということを一番意識していました。開催日はたまたま衆議院選挙の投開票日の前日でしたが、参加者のみなさんには、社会を変える・政治に参加する道筋は選挙だけではなく、自分の実践の先に政治や教育政策を考え、対話を通して具体的に変えるチャンスがあるのだということを感じていただけたとしたら、私としてこれほど嬉しいことはありません。

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