教育のためのコミュニケーション

トークイベント「こんなときだから話そう 日本の教育とナショナリズム」を終えて
2025.12.25 Report by 山崎一希

3人のゲストを迎えて

 日本の教育とナショナリズム。

 ずいぶんと大きなテーマを設定してしまった。とにかく、「ナショナリズム」について誰かと話したかった。日本でもひしひしと(いや、結構おおっぴらに)感じる排外主義的な雰囲気。「日本人ファースト」。反グローバル。今、ナショナリズムのことを言葉にしておかないと不安になる。それが当NPO法人のイベントとなれば、当然「教育」と関連づけて語ることになる。

 3人のゲストに声をかけた。

 一人は東洋大学教授の佐々木啓さん。専門は日本近現代史で、特に太平洋戦争中、戦線ではなく「銃後」の工場労働などを支えた人びとにフォーカスを当ててきた。戦争遺跡の調査を通じて記憶をどう継承するかという問題にもずっと取り組んでいる。歴史学はナショナリズムと戦争をどう見てきたかという視点も踏まえて、教育とナショナリズムの問題に迫ってもらいたいと思った。

 二人目は茨城朝鮮初中高級学校の教諭の金玄徳さん。朝鮮学校の先生が「日本の教育とナショナリズム」を語ることに違和感をもつ人もいるかもしれない。とんでもない。このイベントを企画するとき僕の頭に真っ先に浮かんだのは金さんだった。「多様な教えと育ちの現場ツアー」で同校を訪れたとき、高等部の生徒のみなさんとグループ対話に臨んだときの衝撃が忘れられない。日常や学校生活について語ったときに、彼らの語りに帯びた熱。圧倒される強度。その強さの基礎に、彼ら自身のナショナルアイデンティティをめぐる葛藤の痕跡が明らかに感じられた。言うまでもないことだが朝鮮学校のカリキュラムの核には民族教育がある。翻って日本のマジョリティの人たちにとっては、「民族教育」の実践とは何かということについてあまりにモデルがない。日本の教育とナショナリズムを考える上で、僕はその実践についてもっと知りたかったし、もっと知ってもらいたいと思った。

 三人目は茨城キリスト教大学非常勤講師の池田幸也さん。高校教員と大学教授の経歴をもち、当NPO法人設立以来の監事でもある。池田さんには民主主義や市民教育の側から、ナショナリズムと教育の問題がどう捉えられるかを語ってもらった。

ナショナリズムとは?―帰属意識、プライド、排外主義

 さて、議論を始める前に「ナショナリズム」自体の意味や現状を確認しておきたい。刊行されて間もない、中井遼著『ナショナリズムとは何か』(中公新書,2025)という本がとても役立った。 中井さんはナショナリズムに①帰属意識、②誇りや愛国心、③排外主義という3つの側面があると述べている。ナショナリズムについて素朴に語るとき、この3つがごちゃ混ぜになりがちだが、各種意識調査から要素ごとの関係を見ていくと実に興味深い。たとえば、帰属意識と排外主義の相関を見ると、日本では日本というネーションへの帰属意識が高い人ほど、排外主義の傾向も高いという相関があるが、たとえばイタリア、バングラディシュ、カナダといった国では、反対に帰属意識が高い人ほど排外主義のネガティブな意識をもっているという傾向が見られたという(p.60)。また、帰属意識やナショナルプライドが高い人は、民主規範を調べた項目でも高い数値が示されることが、世界中で見られる(p.114。興味深いことに韓国は逆の相関が出ている)。

 これらのデータが示唆するのは、ナショナリズムの強化を意識した教育が、そのまま排外主義につながるわけでもなく、むしろ民主規範を高める可能性もあるということだ。もちろんそれをもってナショナリズムと教育の関係をナイーブに称賛したいわけではない。ただ、戦後、懸命に「ナショナリズム」的なものを排除しようとしてきた日本の教育が、かえって排外主義を高めてしまっている可能性もないとはいえない。戦前の体制への深い反省を踏まえた、「教え子を再び戦場に送るな」という信念はかけがいのないものだったと思うが、だからこそ戦後80年という短くない期間が経つ今、世界的な情勢も踏まえて、教育の文脈でナショナリズムを見つめなおすことには一定の意義があるのではないだろうか。

民衆が自分たちの歴史を書くという運動

 まずは佐々木さん。佐々木さんは、「よいナショナリズム」というものがあるだろうか、と問いかける。国家を前提とした近代教育は、言うまでもなく「国民」をつくるという目的をもつが、「国民」をつくることは論理的に「非国民」もつくることになる。一方、民族的なマジョリティにとってのナショナリズムと、マイノリティにとってのナショナリズムでは意味合いが異なる。後者にとっての抵抗のナショナリズムを、マジョリティが唱えるナショナリズムと同等に語るべきではないだろう。

 分断を生むという必然性を認識しながら、「国民」とは何かということ、あるいは「民族」の多様さや概念的な限界について人びとが主体的に考え、模索しながら実践することの意味を、佐々木さんの話からは考えさせられる。

 実は日本の歴史学自体の歴史にヒントがあった。佐々木さんによれば、1960年代、石母田正などの歴史学者によって、「国民的歴史学運動」というものがあった。「日本史のなかに『民族』を『発見』しようとした歴史学」と佐々木さんは説明する。当時、世論を覆ったある種の危機的雰囲気(今もそうかもしれない)の中、村や工場の歴史を、村民や労働者といった民衆自身の手で書くという運動が、いろんな地域で取り組まれたのだ。ところが運動内部の対立などもあり、この運動は歴史学でもある種の「悪夢」のように捉えられてしまっている。しかし佐々木さんは、「歴史を民衆自身の手で書く」という実践には再評価されるべき点もあるだろうと語る。歴史という物語を書くという実践をネットワーク化しつつ、大きな物語に回収されないように、「固定せず、ずらしていく」(佐々木さん)。落ち着かないかもしれないけれど、それを続けられるかは重要なことだ。

アイデンティティへの小さな違和感を解明する学び

 続いて金さん。朝鮮学校の子どもたちのすべてではないけれど、一部の子どもたちは、小学生ぐらいの段階から、日常生活の中で小さな違和感を抱き始める。たとえば自分の朝鮮名の存在とか。金さん曰く、「朝鮮学校での学びとは、この『小さな違和感』を解明していくものだと思っています」。この言葉に、まずははっとさせられる。たとえば僕がナショナリティについてメタな視点をもって考えられるようになったのは、せいぜい大学生になってからだ。ところが朝鮮学校の子どもたちにとっては既に幼いころからそれが日常における自分ゴト化した「問い」なのである。

 金さんたちは子どもたち自身の「違和感」に寄り添い、それを解消するのではなく、解明し、育てていく。その過程で子どもたちは、「朝鮮、日本、在日、世界という多様な立場の自分を意識することになる」という。金さんの次の言葉もきわめて印象的だ。「自分の立場はどこにあるのかという思索は、市民性の基本だと思います」。自分のルーツへの不安。それを肯定に変えていくことが、他者理解にもつながる。この信念に対峙するとき、「マジョリティ」の日本の教育におけるナショナリズムの位置づけと、まさに「他者理解」を育む実践のあり方を、僕たちは省察せずにはいられない。

 最後は池田さん。池田さんは、「私にとって最も重要なことは戦争を防止すること」と宣言し、価値教育などの観点から、佐々木さん、金さんの話のポイントを整理してくれた。その上で、僕が興味深く感じたのは、「社会科」教育をめぐる認識だった。戦後に生まれ、歴史と地理と公民教育をつなぎあわせる「社会科」は、実は世界でも類を見ない「謎の教科」だ。その意味で「社会科」という教科の体系をつくることは、ナショナリズムと直に向き合い、それを構成する実践的な試みだったのかもしれないと思いながら、私は話を聞いていた。一方、池田さん曰く、「社会を問い、社会に参加する学びとしての社会科の体系は未成熟なまま解体されてきた」。だからこそ、「主権者教育をなぜその体系でやらないのか不思議で仕方ない」と話していた。

「国民」=「市民」になるための権利と他者理解の実践とは

 実は僕自身は、日本の学校においてネーションとナショナリズムの概念について、俯瞰的な視点で学び、議論する時間が必要なのではないかと考えていた。それは、朝鮮学校の子どもたちが、日常的な意識としてナショナルアイデンティティの問いに向き合っていて、それが市民性教育の礎になっているという話を聞いたからだ。逆にいえば、その悩みを持たずに済む子どもたちは、深い他者理解へとつなげるためにも、むしろ「悩み」を無理やり誘うことも必要なのではないか、と。

 しかし三人との議論を通じて考え直すところがあった。佐々木さんからは、たとえばストライキなどの労働者の権利を、市民の「使える」権利として学ぶような取組みの方が大事なのではないかという指摘があった。それについては池田さんも、SDGsのような大くくりの社会課題のタームを学ぶより、自分たちの権利を会得し、社会的なことを「自分ゴト」にしていく実践や、ナショナリティだけではないマイノリティとマジョリティの具体的な接点の拡大が重要だと語った。確かにそうかもしれない。だとすれば、最初の佐々木さんの話にもあったように、「国民とは何か」ということ自体を、僕たちはもっと語り、言葉や実践にしていくべきなのだろう。

 イベントには対面、オンラインをあわせて10人ほどの参加があり、マイノリティへの理解や、文化的伝統の視点など、さまざまな意見が寄せられた。ナショナリズム同士の衝突も本来はじっくり議論すべきテーマだ。限られた時間でそこまで深掘りできなかったものの、ナショナリズムや「国民」という概念を強く意識しながら、現場レベルでは真摯な市民教育の実践を試み続けることが重要という視点が共有されたと思う。僕自身は引き続き金さんたちの実践をウォッチしつつ、社会全体での議論や実践の模索・批評が広がるような働きかけを続けていきたい。

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