教育のためのコミュニケーション

日本農業実践学園(水戸市内原町)訪問ツアー 自然な実践の歴史が刻まれた場所
2023.11.18 多様な教えと育ちの現場ツアー Report by 山崎一希

 ひたむきな実践の歴史によって作り上げられる場所。そういう場所は、たとえば博物館のような人工的な歴史の伝達空間以上に、訪れた私たちに語りかける声を持っている。約100年の歴史をもつ日本農業実践学園の広い敷地を案内していただきながら、そんなことを考えた。

 日本農業実践学園。水戸市内原町に高大な農地とキャンパス施設をもつ。学校の区分でいうと「専修学校」。高校卒業者や社会人向けの課程のほか、最近は短期間のイベント的な体験教育や求職者支援のプログラムなども提供している。米、野菜、果樹、畜産など、基本的にはそれぞれが関心のある作物を選び、その農法を実践的に学ぶ。育てられた作物は実際に出荷したり、学園内で加工したりする。また、学生は学園の農地内に自分用の区画をもつことができ、そこで育てたものは学園の販売所で売り、収入を得ることも可能だ。道路に面した販売所は、近隣の住宅街に住む人たちに重宝されており、開店と同時にお客さんが続々とやってくる。

 今回のツアーの参加者は6人。内2人は、茨城大学で学ぶ中国人留学生だ。全員が予定より早く着き、互いに自己紹介などをしていると、ワゴン車に乗った学園長の籾山旭太さんが通りかかった。「あれ?何時からでしたっけ?」。坊主に刈り上げた頭に愛くるしい笑顔。神奈川県出身で、自身も学園の卒業生だ。

 挨拶を済ませ、学園内を歩いて巡るつもりでいたら、籾山さんから「広いから無理ですよ」と言われ、ワゴン車に誘われた。そして乗り込んで1分もしないうちに、籾山さんの言っていることを理解した。「あそこに森が見えますよね。その手前までが学園の敷地です」。窓の外に広がる畑は、ほとんどの作物が収穫を終えたようだったが、小豆がちょうど収穫の時期を迎えていた。ツアー参加者の一人、和菓子愛好家のK氏は、数粒をお土産に受け取っていた。

 畑、田んぼ、牛舎、豚舎、そして出荷のための施設。細い農道で難なくワゴン車を走らせる籾山さんのテクニックに驚かされながら、それぞれの施設を見て回る。牛舎の横に積まれた飼料の山は、学園内で収穫されたワラを発酵させたもの。そして牛たちの糞は肥料に使われる。環境面からもコストの抑制の面からも、循環は大切だ。

 私にとって強烈だったのが、豚舎だった。牛舎は自分の職場(大学)の農場にもあるので時折訪れているが、豚舎を見たのはほぼ初めてだった。ものすごい数の豚がひしめき合っている。そのひしめき具合は、「数」ではなく「量」と呼ぶにふさわしいものだった。すなわち、豚のようなそれなりの大きさをもつ生きた哺乳類も、ある密度を超えると、もはや個体としては認識できなくなる。それを私は初めて体験として悟った。近代的な食肉の「生産」とは、この自覚に向き合うことから始まるのかも知れない。この体験だけをとっても、このツアーの価値を噛みしめることができる。

 その後は学生寮などを見学。「いやあ、広いですね。どうもありがとうございました」と籾山さんに謝意を示すと、「いえ、まだ半分です」と返ってきた。
 これは確かに歩いて巡ることなんてできない。

 日本農業実践学園が「日本国民高等学校」という名前で開校したのは、1927(昭和2)年のことだ。学園の入口には、鍬を手にした初代校長・加藤完治の大きな銅像がそびえ立つ。その当時、加藤たちはデンマークを訪れ、「生のための学校」といわれた「フォルケフォイスコーレ」を視察。職業実践の教育と国民としての人格の育成とが結びついた教育のあり方に感銘を受け、「日本国民高等学校」が政財界の名士たちの出資によって設立された。

 加藤の銅像のすぐそばに武道場がある。1階が柔道場、2階が剣道場だ。加藤は武道家でもあって、心技体の鍛錬と、鍬を持って畑を耕して生きるあり方とを結びつけ、教育課程に武道を取り入れていた。学園では今でも朝になると、面を打つ声が武道場から聞こえてくる。剣道場の壁に掲げられた額には、「対すれば即ち和す(人と対峙したときは調和する)」などと書かれた鎌倉時代の武道訓が収まっている。すなわち、相手=自然との調和こそが農である、と。

 このように描写すると、学園の教育がいかにも古風で保守的なものに思われるかも知れないが、実際には決してそんなことはない。少なくとも目の前で木刀を握ってみせる籾山さんから、そういうストイックさや押し付けがましさは感じなかった。もっと穏やかで自然な雰囲気の中に、無理のない形で歴史が息づいている。伝統が学園の実践を束縛しているのではなく、現代の人たちが自分たちの実践のために伝統を参照している、とでも言おうか。

 加藤完治は、太平洋戦争終結後、公職追放の対象となった。その理由のひとつが、戦前及び戦中に、日本が占領した満州などに青年たちを移民として送り出す「運動」に深く関わっていたからだ。その当時、学園は満蒙開拓団の青年たちの訓練場と化した。
 その歴史を伝えるように、学園に隣接する土地には、青年たちの宿舎として使われていた「日輪兵舎」と呼ばれる円錐形の建物が残されている。短期間でいくつも組み立てられる構造になっており、直径20メートル足らずの建物に80人が過ごしていたという。その周りにはいくつもの石碑が建てられていた。

 今回のツアーには中国人留学生も参加していた。籾山さんは「中国の留学生の方がいらっしゃると聞いて、ここを案内すべきかどうか迷ったんです」と話してくださった。しかし、留学生たちは過去にも別の地域で同様の施設を訪れたことがあると話し、日本で生まれ育った他の参加者以上に満蒙「開拓」の歴史について学んでいた。私は彼らに敬意を覚えずにいられなかった。

 学園は実際に移民政策の要所だったようで、敷地内には東条英機も訪れたという迎賓館の建物も残されていた。もっとも、修繕を重ねて当時の姿を残しているというのではなく、風雨にさらされながら、なんとかそこに残っているという状態。「学園の資金ではなかなかメンテナンスもできなくて…。茶室などもあるので、いろんな人がワークショップのような形で関わりながら修繕して、地域の資源として活用できるといいのですが」と籾山さんは言っていた。確かに何かできるとおもしろい。

 農地の面積あたりの売り上げが最も大きいのが、ハウスで栽培されているイチゴだそう。その他にもさまざまな作物が育てられているが、学園のスタッフの数を聞いて、その少なさに驚いた。したがって、それぞれの作物の生産に関わる専門的な技術については、学園の職員だけでなく、近隣の専門農家の方たちに教わるところも多いという。
 また、すぐそばには内原小学校があり、彼らは学園の水田で体験学習を行っている。さらに学園内では学童のデイサービスも営まれている。地域とのつながりは深い。

 ツアーの最後は食堂で食事をさせていただいた。
 この日のメニューはハヤシライス。そのほか、「朝食の残り」(籾山さん)という煮物などの大皿が調理台に並んでいる。きわめつけは自家製ヨーグルト。強い粘り気があり、見ているだけで栄養が豊富に感じる。一人500円でこのボリュームは嬉しい。
 ちなみに基本的には職員と寮生向けに提供されているものなので、ふらりと訪れても食べられるわけではない。気になる方は次回(?)のツアーにぜひご参加を。
 食事をとりながらの歓談が、また楽しかった。

 ツアー参加者のK氏はドローンの専門家でもあり、今回も自身のドローンを持ち込んでいて、学園内で飛行させていた。ブーンという音に、周りにいた人たちも思わず空を見上げる。そのドローンで記念撮影……のつもりが、写真はうまく撮れていなかったようなので、動画からキャプチャした画像を貼り付けておく。

 日本農業実践学園が約100年の歴史で取り組んできた「農業実践」とは、それぞれの学生たち個人の実践だけではなく、近代以降の日本社会における「農業」のあり方の歴史を実践するものだ。その歴史を、ある種の「物語」として学ぶのではなく、残された実践の轍に身を置きながら、自分も「実践者」の一人として学べる場所が、そこにはあった。

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